思索器官

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【勝手に考察】アンパンマンに隠された設定とは

2017年2月現在、「けものフレンズ」というアニメがすごく流行っていますが、このアニメの楽しみ方は2種類に大別できるようです。すなわち、ポストアポカリプスの世界で繰り広げられている話として、その物語やアニメ表現に秘められた設定や意図を読み取ってみようと考察する人たちと、頭を空っぽにしてまるで童心に帰ったような純粋な心で視聴する人たちがいるようです。ちなみに私は後者です。

ただ今回は「けものフレンズ」それ自体の話題ではなく、こういった考察って実は他のアニメでも成り立つのではないかと考えていたら、ふとアンパンマンって実は哲学的な物語だったのではないかと感じたため、記事として残してみたいと思います。

 

実は深かった?アンパンマンの世界 

アンパンマンとスワンプマン

アンパンマンがヒーローとして他の作品と一線を画している点は、何と言っても自己犠牲に尽きると思います。困っている人に自分の顔(あんぱん)を分け与える、自分の体を文字通り犠牲にして他者に分け与えることで他者を救うという行為こそがアンパンマンという存在の価値または作品が持つメッセージ性で、そのようなキリスト教的価値観に基づいている所は、作者であるやなせたかし氏が意図する所でもあったようです。

しかしここで問題となってくるのは、アンパンマンの顔の置換可能性です。アンパンマンは顔に水をかけられるようなダメージを受けると弱体化してしまいます。しかし彼はジャムおじさんに焼いてもらった新しい顔に交換することで力を取り戻し、気力十分な状態でのアンパンチによって、ワンピースのゴムゴムのバズーカよろしく敵を吹き飛ばします。不利な状態からの爽快な逆転劇として分かりやすいカタルシスを感じさせてくれる場面ですが、この時交換された方の顔は一体どうなっているのでしょうか。つまり、顔を交換される前と後でアンパンマンは同じアンパンマンなのでしょうか。

 

この問題は、自己同一性に対する思考実験として有名なスワンプマンと呼ばれるものです。

ある男がハイキングに出かける。道中、この男は不運にも沼のそばで、突然 雷に打たれて死んでしまう。その時、もうひとつ別の雷が、すぐそばの沼へと落ちた。なんという偶然か、この落雷は沼の汚泥と化学反応を引き起こし、死んだ男と全く同一、同質形状の生成物を生み出してしまう。

この落雷によって生まれた新しい存在のことを、スワンプマン(沼男)と言う。スワンプマンは原子レベルで、死ぬ直前の男と全く同一の構造を呈しており、見かけも全く同一である。もちろん脳の状態(落雷によって死んだ男の生前の脳の状態)も完全なるコピーであることから、記憶も知識も全く同一であるように見える[1]。沼を後にしたスワンプマンは、死ぬ直前の男の姿でスタスタと街に帰っていく。そして死んだ男がかつて住んでいた部屋のドアを開け、死んだ男の家族に電話をし、死んだ男が読んでいた本の続きを読みふけりながら、眠りにつく。そして翌朝、死んだ男が通っていた職場へと出勤していく。

(Wikipedia)

スワンプマン - Wikipedia

 

つまり、アンパンマンはこういった哲学的な問題を設定の根幹に含む作品であると言うことができます。

アンパンマンにそう言った問題が含まれていると仮定すると、アンパンマンは単純な物語ではなく、冒頭に述べた「けものフレンズ」のように、その設定に対して一定の考察を与える価値のある作品と捉えることができるでしょう。

 

顔面の置換可能性について考えると、まず始めにアンパンマンの脳、あるいは魂はどこにあるのかについて考えなければなりません。人間と同様に考えるなら脳は頭部にあると考えられますが、彼は頭部が交換可能であり、さらには顔の一部を他者に分け与えます。自己の精神の根幹を成す部位を他者に分け与えるなんて究極の自己犠牲だと思いますが、アンパンマンには顔を交換されても記憶を維持し続けているような表現があります。この点を踏まえると、アンパンマンの脳、あるいは魂は頭部ではなく体の方に存在する可能性が出てきます。そしてアンパンマンは体が本体だと仮定すると、頭部の交換可能性と彼の自己犠牲の理由を説明することが可能になります。すなわちアンパンマンにとって頭部はエネルギータンクのようなものであり、あんぱんが彼のエネルギー源でしかないからこそ、他者に分け与えることができるのです。

 

アンパンマンの正体

さらに重要なことは、ジャムおじさんやバタ子さんに代表される、アンパンマン世界における人間の存在です。人間が存在する世界において首から下が本体であるアンパンマンの存在とは一体何なのか。ここで手がかりとなるのは、彼に与えられた名前です。

スパイダーマンやアイアンマンのと同様に、アンパンマンとはあんぱんにまつわるヒーローであることに疑う余地はありません。しかしこの時重要なのはアンパンマンのマンの部分でです。マン、英語表現であるとするならman、すなわち人です。アンパンマン世界における名前というものは、カレーパンマンや食パンマンのように文字通り名は体を表すものだと考えるなら、アンパンマンとはエイリアンでもロボットでもなく人なのです。

 

なぜ人類がそのような方向に変化してしまったのか、作中では明言されていません。しかしアンパンマンとバイキンマンの対立構造と関係性を踏まえて考えると、アンパンマンの陣営とバイキンマンの陣営に分かれた対立の中で人体を改造して兵器とした可能性や、人口爆発によって生じた食料問題に対処するため人間のエネルギー消費の効率化を図った可能性、もしくは環境問題に対する一つの答えとして人類が選んだ選択だったのかもしれません。そんな世界の中で、数の違いはあれど元の姿であることを選んだ人類とアンパンマン陣営、バイキンマン陣営が共存しているということは、憎しみや不平等な社会の中でも、生物や人間の多様性を受け入れ共存していこうという精神を表しているのではないでしょうか。

 

終わりに

以上のように、アンパンマンとは子供向けの知育アニメという一面だけではなく、「けものフレンズ」と同様にポストアポカリプスの作品として考察の余地があり、大人の鑑賞に耐えうる哲学的示唆を含めた作品である可能性があると指摘できます。

アンパンマンの人体構造に関するさらなる研究や、バイキンマンとの関係に見られるいじめ構造のように、まだまだアンパンマンには多くの議論の余地が残されています。そのような課題は後世の研究者に託し、この辺りで私は筆を置きたいと思います。 

願わくばアンパンマンが永遠に語り継がれる作品となりますように・・・

 

 

 

(この記事は100%ネタでできています)